グイノ・ジェラール神父の説教
B年
復活節から
キリストの聖体の祭日まで
復活の祭日
復活節第2の日曜日
復活節第3の日曜日
復活節第4の日曜日
復活節第5の日曜日
復活節第6の日曜日
主の昇天の祭日
聖霊降臨の祭日
三位一体の祭日
キリストの聖体の祭日
復活の主日 B年 2015年4月5日 グイノ・ジェラール神父
使徒10,34、37-43 コロサイ3,1-4 ヨハネ20,1-9
今日の3つの朗読を通して、聖ペトロと聖パウロと聖ヨハネは自分たちが見たことについて証しします。 聖ペトロと聖パウロは、神の右に座って、生者と死者とを裁くために来られる復活されたキリストについて直接に語ります。 聖ヨハネは、イエスについて何も言わずに、ただ物事について宣べます。 それは空っぽの墓と、その墓に残されていた死者の亜麻布などです。 聖ヨハネの福音は、次の不思議な言葉で終わります、「二人は、イエスが死者の中から必ず復活するという聖書の言葉を、まだ悟っていなかった」と。
私たちが信じる事が出来るように、イエスはご自分の姿を見せることだけで充分です。 しかし、聖ヨハネは私たちの信仰を照らす為に必要な物事や聖書の教えしか利用しません。 聖ヨハネにとっては、イエスを見ることだけでは充分ではありません(参照:信じなかったトマスの物語はこれについて証しします)。 キリストが真に復活されたことを証しする為に、聖ペトロと聖パウロは、聖書の様々な箇所を利用します。 弟子たち皆が復活の出来事を信じるように、イエスご自身も聖書の言葉をよく利用しましたから。 「イエスはモーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ24,27、参照:ルカ24,44)と書かれています。 イエスを知る為、またイエスを見る為には、神の言葉が必要不可欠です。 聖書の光無しでは、私たちは暗闇と無理解の中に留まります。
復活の出来事は私たちに対する神の愛を啓示します。 神も私たち自身も、誰であろうとはっきりと知る為に、私たちは聖書全体を読み、そのみ言葉が自分自身に染み込み、絶えず黙想する必要があります。 なぜなら、復活は神ご自身のアイデンティティーだからです。 「わたしは『ある』ものである」(出エジプト3,14)と神はモーセに啓示しました。 昔から永遠に神は生ける神です。 神は私たちを愛し、私たちに命を与え、特にご自分の命を与えてくださいます。 私たちは神と共に永遠に生きる為に、神は私たちを復活させます。 復活することは、神がおられるところに一緒にいることであり、つまり三位一体の神の中心で、神の内に留まることです。 これについて聖パウロは、コロサイの信徒への手紙の中で「わたしたちの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(コロサイ3,3)と言っています。 キリストの復活と自分自身の復活を信じることは、神に栄光を与える事であり、同時に愛と救いの神秘に入り込む事です。
生ける神と共に生きる為に、私たちは永遠の昔から招かれています。 罪は死を生み出し、命を奪うので、神は有り余るほどの命を与え、私たちが死んでも神は更に命を豊かに与えるのです。 イエスと共に死の力と戦う事によって、私たちは命の証人である事を示さなければなりません。 神が私たちを愛したように、私たちも愛することによって、私たちは命の証人となるのです。 他のやり方がありません。 キリストの復活が与える希望は、愛する事、赦す事、分かち合う事、慰める事、力づける事に対する私たちの努力を支えなければなりません。
復活されたキリストの内に、全人類は神に愛されて、栄光に導かれています。 神が私たちを愛したように互いを互いに愛し合うならば、必ず復活の朝の素晴らしい喜びが、私たちの心を満ち溢れさせるでしょう。 神と隣人への私たちの愛が真実であるならば、神の言葉の理解は私たちに豊かに与えられるでしょう。 なぜなら、愛はいつも真理をはっきり見せるからです。 愛だけが人生のすべての出来事の神的な意味を悟らせるからです。 ですから、復活されたイエス、そして私たちの心に豊かに注がれる聖霊が、愛の完成まで私たちを導きますように父なる神に願いましょう。 アーメン。
復活節第2主日 B年 2015年4月12日 グイノ・ジェラール神父
使徒4,32-35 1ヨハネ5,1-6 ヨハネ20,19-31
教皇ヨハネ・パウロU世は復活の第2日曜日を「神のいつくしみの日曜日(主日)」と定めました。 福音の話の中で広がるこのいつくしみを見て発見しましょう。 「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と書かれています。 弟子たちと出会う為に、また彼らに安心と喜びを与えるために、イエスはご自分を弟子たちと隔てている壁を乗り越えなければなりませんでした。
次に「イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われました」。 弟子たちが閉じこもっている不安と恐れから解放するために、イエスだけが壁を乗り越えることが出来るのです。 イエスは自分と共に平和をもたらし、ご自分の現存は皆に安心と喜びを与えます。 復活しても、イエスはいつもの通り、隔てる壁を取り除き、人を麻痺させる恐れと後悔する思いから解放する方です。 イエスは今もいつも、救う方、癒す方、解放する方、他の人の方へ人を遣わす方であることを弟子たちは一瞬の内に体験します。
イエスは重ねて言われます「あなたがたに平和があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。 イエスは神の名によって弟子たちの真ん中に立っています。 従って、イエスは私たちの間に居る時に、私たちもあっと言う間に、父なる神と神が豊かに与える聖霊とに結ばれているのです。 更に、キリストに結ばれている私たち一人ひとりは、聖霊の交わりの中で父なる神にキリストと共に遣わされています。 それは父なる神の名によって世界の人々に平和、喜び、癒し、解放をもたらすためです。
イエスはまた弟子たちに息を吹きかけて言われました。 「聖霊を受けなさい」と。 キリストを歓迎する度に、私たちは聖霊を受けています。 その時イエスは私たちの心に、神のいつくしみを注ぎます。 聖霊と共に神ご自身が完全に私たちにご自分の全てを与えるので、私たちの体は「聖霊の神殿」と呼ばれているのです。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。 だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、そのまま残る」とイエスは言いました。 自分の内に神を受け止めることによって、私たちは神のいつくしみに与ることになります。 使徒言行録は、それを具体的に表し証ししています。 人々は皆、使徒たちのそばに病気の人を連れて来たので、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われていました」(使徒5,12)。 今日、復活されたキリストの証人となった私たちもいつくしみの業を行うように召されているのです。 イエスが与える喜び、平和、聖霊と罪の赦しは、神の明白ないつくしみのしるしです。
黙示録を通して、イエスが次のように言いました。 「恐れるな。 わたしは最初の者であり、最後の者であり、生きている者である。 一度は死んだが、見よ、世々に限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っています」(参照:黙示1,17-18)と。 私たちは死に打ち勝った復活されたイエス・キリストを信じているから、平和のうちに父なる神の国へ私たちを導く為に、イエスご自身が私たちの愛と希望といつくしみとなるのです。 私たちはこの平和をキリスト自身から頂いて、またいつくしみを必要とする全ての人に、イエスは私たちを通して与えるのです。
ですから、神のいつくしみの日曜日に当たって、父なる神に益々似る恵みをイエスに願いましょう。 何故なら、何世紀にも渡ってイエスはずっと次の言葉をくり返しますから。 「あなたがたの父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い者となりなさい」(参照:ルカ6,36)。 アーメン。
復活節第3主日B年 2015年4月19日 グイノ・ジェラール神父
使徒3,13-15,17-19 1ヨハネ2,1-5 ルカ24,35-48
遅い時間にも拘らずエマオの弟子たちは、急いでエルサレムへ戻りました。 彼らが抱いていた絶望は燃え上がる熱烈な感情に変化しました。 この二人の弟子たちは、自分たちが見た事と復活されたイエスをどのように見分けたかについて、エルサレムに残った他の弟子たちに説明します。 皆がこの話を聞いている途中、急にイエスは彼らの真ん中に立っています。 弟子たちはとても恐れおののき、今聞いたばかりの証しをすっかり忘れてしまい、亡霊を見ているのだと思いました。
イエスは弟子たちを安心させてから十字架上での自分が受けた手と足の傷を見せます。 なぜなら、手は働くために、足は歩くために必要不可欠な体の部分ですから。 イエスがご自分の手と足を見せた理由は、弟子たちが洗礼を授け、病人を癒し、人を赦し、神の国のしるしを表す為に行くあらゆる所に、イエスが今までと同じように、彼らに伴い続けることを示す為でした。と言うのは、復活されたイエスは、世の終わりまでご自分の弟子たちやご自分を信じる人々と共におられるからです。 イエスは亡霊ではなく、生ける神であり、私たちを救うために一緒に留まる神です。
暫くしてからイエスは何か食べる物を要求します。 それは復活しても自分が同じ人であることを示す為だけではありません。 実に、エマオの村で食前の祈りをした直ぐ後に、自分の姿を消したので、まだイエスは何も食べていなかったからです。 また食事は意見の分かち合いを楽にしますので、弟子たちと食事をしながら、イエスは彼らにたくさんの事について話したいのです。 ご存知のように、ミサ祭儀はいつも兄弟的な食事であり、そこでイエスと出会い、彼と共に何でも分かち合います。 そして今日イエスは私たちに言いたいことがたくさんあります。
ご自分の復活の事実を弟子たちに納得させるために、イエスはとても苦労しました。 と言うのは、彼らはイエスの復活の証人にならざるを得ませんでしたから。 弟子たちが互いに、イエスの復活について証し合う時は終わりました。 今から後、弟子たちはそれを全世界に宣言しなければなりません。 彼らの証しを受けて、その証しを信じた私たちは、弟子たちの体験を自分のものとしながら、自分の信仰宣言をしなければなりません。 言い換えれば、自分の生き方の内に、そして武庫之荘教会の共同体の中に、復活されたキリストの現存を身を持って証ししなければなりません。
イエスの新しい生き方を認める為には、メシアであるキリストについてモーセや預言者たちや詩編がどのように教えているかを、弟子たちはイエスの口から聞く必要がありました。 そういう訳で、イエスは聖書を悟らせる為に、弟子たちの心の目を開きました。 イエスは人間になった神の言葉であり、イエスは命の言葉であるからこそ、復活の恵みを与えるお方です。
イエスの母マリアは、復活の夜きっと弟子たちと共にいたでしょう。 聖書の教えをよく知っていたマリアは、イエスの話を注意深く聞いていました。 そうすることで、マリアは自分の子の復活と彼の生涯の出来事の意味をようやく悟りました。 ですから、私たちもキリストの神秘を理解するように、そしてまた神の言葉が与える光を私たちの心に沁み込ませるように、マリアの助けを願いましょう。
聖書を通して神が教えていることを悟り、そして行う為に、イエスが私たちの心の目を開くように願わなければなりません。 詩編や預言者たち、あるいは聖書のすべての箇所を通して、神が私たちに語ることを知ろうとしない人、あるいは無視し続ける人が、果たして教会の信仰を宣言できるでしょうか。
全人類に対する神の愛が、イエスの受難と復活によって実現されたことを伝えるのは、これからの私たちの使命です。 「あなたがたはこれらのことの証人となる」とイエスは断言しました。 復活されたイエスを信じる事は、神の言葉に真面目に耳を傾ける決心をすることです。 信じることによって聖霊の交わりの内に、至る所で福音の良い知らせを宣べ伝える為に、私たちは飛躍的な力を受けています。 真にイエスは復活しました。 私たちはこの出来事の証人です。 アーメン。
復活節第4主日 B年 2015年4月26日 グイノ・ジェラール神父
使徒4,8-12 1ヨハネ3,1-2 ヨハネ10,11-18
イエスは生きている、イエスは罪と死に打ち勝った、ということを人々に宣言することは、果たして役に立つでしょうか。というのは、毎日メディアでは死と破壊を伝える写真と情報を流しているからです。この世界に新しい命の希望を与える為に、また人間の心を蝕んでいる悪を暴く為に、私たちはわざと復活されたキリストを祝っています。キリストはご自分の身に世の罪と悪を背負って、罪と死に打ち勝ちました。しかしそれが出来たのは、他の人の死によってではなく、ただご自分の死によってだけです。
イエスが復活されたことを宣言することによって、私たちは世界の人々に、イエスが私たちを救う為に私たちの困難の中心におられることを思い起こさせます。確かに、ご自分の父の愛の計画を実現するために、イエスはいつも私たちと共に留まっているのです。父なる神は平和と終わりのない幸せを私たちに与えようとします。「わたしは良い牧者、わたしはまことの羊飼い、自分の羊を知っている。羊もわたしを知っています。わたしは羊のために命を与える」とイエスは繰り返し、私たちに納得させようとします。
聖書の始めから終わりまで、アベルの時代からイエスまで、神は命がけで、羊飼いとして自分の群れの世話をすると言うたとえを使ってご自分を紹介します。人間が永遠に生きる為に、神はご自分の命の息吹を与えました。人々をご自分の愛する子供たちとする為に、神は彼らに命の言葉であるイエスを与えてくださいました。ご自分の愛と赦しをはっきりと示す為に神はご自分の子イエスの血によって、平和と喜びの永遠の計画を私たちと結びました。その結果、私たちは愛によって贖われた民、そして神の聖なる民となりました。これについて、聖ヨハネは第一の手紙の中で次のように書き記しました。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」と。
良い牧者であるイエスだけが、神への知識と人々への知識へと私たちを導き指導する真実の案内人です。事実、神は私たちの父、私たちは皆兄弟姉妹です。神への知識は、人間に対する知識と理解へと導きます。同時に、人間への知識は神に対する知識と理解へと導きます。このお互いの知識と理解は、あらゆる絶対的な権力、搾取、差別を廃止します。神を知ることによって、神が私たちを愛したように、私たちも同じように愛するようにと、優しく導かれています。また人間を知ることによって、感謝のうちに神のみ手にすべてを委ねるように私たちが導かれているのです。
私たちが仕える人、そして案内をする人、慰めと執り成しを与える人となるように、良い牧者であるキリストは私たちを招きます。世界召命祈願の日に当たって、イエスの弟子としての私たちの使命とは、周りにいる人々に良い牧者の姿を示すことです。その為に私たちは絶えず神の言葉に耳を傾けることが必要です。私たちが「死の陰の谷を歩くとき」(詩編23,4)こそ、主は私たちの牧者であることを良く知っています。私たちは、試練の真っ只中に置かれている人にとって、救いの手となるように覚悟しなければなりません。
今日の福音を通して、イエスは自分が良い牧者であり、羊の為に命を与えることを5回繰り返しました。死に打ち勝って復活されたイエスは、私たちにご自分の命を豊かに与え続けます。そのために、私たちはイエスの復活を宣言し祝っています。それに加えて、最も大切な事とは、イエスと自分自身の間で個人的な絆を作り強めなければなりません。
それについて、私たちはどうすれば良いかをよく知っています。まず、神の言葉を聞く事、「わたしの羊はわたしの声を聞く」とイエスは言っています。確かに、イエスの内に揺るぎない信頼を置く為に、私たちはイエスの言葉を自分の人生の最優先にしなければなりません。そして、聖霊がイエスの言葉で私たちを養うように、その言葉を祈りの土台とし、ゆっくり黙想することが肝心です。最後に、聖体拝領の時、自分の手の中で受ける方となる為、すなわち、キリストの命に生きる為に、私たちはイエスの御体と御血で自分を養う必要があります。このようにすれば私たちは、本当に、父なる神の愛する子供となり、そして、復活されたキリストと共に世の救いに、もっと効果的に働くことが出来るのです。私たちが皆一緒にキリスト者として自分の使命を実現する為に、聖霊が私たちの内にご自分の力を発揮しますように、暫くの間祈りましょう。アーメン。
復活節第5主日 B年 2015年 5月 3日 グイノ・ジェラール神父
使徒9,26-31 1ヨハネ3,18-24 ヨハネ15,1-8
今日は聖パウロについて見てみましょう。 回心してからの聖パウロは、キリストと福音のメッセージを宣べ伝える人々にとって模範となりました。 幼い時から聖パウロは、ローマ帝国の市民だけが受ける特別な教育を受けました(使徒22,28)。 彼はヘブライ語、アラム語、ギリシャ語そしてラテン語を流暢に話します。 17歳の頃、聖パウロはエルサレムへ行きます(使徒26,4)。 そこで当時のエルサレムで一番有名なラビの先生ガマリエルの弟子になり、ファリサイ派のグループに属しながら、熱心に律法の勉強をします(使徒22,3)。 ユダヤ教の厳しい教育のせいで、パウロはキリスト者の暴力的な迫害者になりました。 しかしそれは、ダマスコへの道で復活されたキリストと出会い、回心するまでのことです。
キリスト者となったパウロは、三年の間にダマスコの町に福音を宣べ伝えます。 そしてシリヤとキリキアとアラビア地方とダマスコ地方に長年その活動を続け広げます(使徒15,23)。 聖パウロは、いつもギリシャ語でユダヤ人たちに話しました。 このようにして、聖パウロは国際的なレベルと文化を持っていたので、律法学者やファリサイ派の人々を遥かに超えていることを証ししています。 さて、十四年を過ぎて聖パウロはエルサレムに行きます(ガラテ1,17-2,1)。 しかしエルサレムの弟子たちは、彼がキリスト教徒を迫害していた恐ろしい過去を知って、恐れの余りに仲間としてパウロを歓迎しませんでした。 そこで彼の友であるバルナバは、パウロの素晴らしい福音宣教について称賛する演説をします。 ようやく聖パウロを自分たちの仲間に加えることによって、弟子たちは「赦す事と互いに愛する事」というイエスの掟を実現しました。 キリスト教徒を迫害し、殺したパウロの過去は恐ろしいものであっても、彼は神の赦しに相応しい人です。 そして何よりも先ず、キリストご自身が使徒のレベルにパウロを定めました。
迫害された後、パトモスと呼ばれる島に追放されたヨハネも、イエスを信じる全ての人に条件なしで赦すことや、互いに互いを愛することを強く要求します。 自分がイエスに属することを主張する人は、イエスと同じ実を結ばなければならないからです。 イエスはぶどうの木であり、私たちはその枝です。 私たちはぶどうの木の生命力を受け、繋がっている枝です。 枝が離れると枯れてしまう事を皆は良く知っています。 このように、イエスの影響から遠ざかろうとする信者は死ぬ結果を選びます。
「わたしにとって、生きるとはキリストです」(フィリピ1,21)と聖パウロは宣言します。 私たちに命を豊かに与える為にイエスは来られました。 イエスは私たちの人生の中心にも、そして私たちが出会うすべての人の内にもおられます。 神が望む実を私たちが結ぶように、ぶどうの木であるイエスに強く繋がることを私たちに要求します。 父なる神は農夫であるからこそ、私たちは彼の手の中に留まることが肝心です。 ご自分のぶどう畑が聖であり、魅力的で立派であることが、父なる神の唯一の望みです。 絶えず、聖霊の働きかけによって、神は自分たちの内にある役に立たない物事やキリストから私たちを遠ざける物事を取り除きます。 教会の秘跡と神の赦しを受け、また自分に負い目のある人を赦す事によって、私たちはキリストから離れる危険を遠ざけます。 キリストの内に留まる人は神の内に留まり、そして神もその人の内に留まることを私たちはよく知っています(参照ヨハネ14,20)。
真のぶどうの木であるキリストは、命の泉でもあります。 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために」(ヨハネ10,10)とイエスは言いました。 イエスは決して私たちの平均寿命を伸ばすのでもなく、私たちが若い時に持っていた力を新たにもしません。 しかし、イエスは神ご自身の命を私たちに与えます。 キリストに結ばれ、キリストと一致している人は神化されています。 即ちその人は三位一体の神の中心に生きるのです。 この事実を理解するなら、聖パウロと聖バルナバ、そしてキリストのすべての弟子たちと同様に、私たちも世界の人に福音の良い知らせを宣べ伝える為に、全身全霊を尽くすでしょう。 神の愛によって生き生きとされ、隣人への愛によって励まされている私たちは、出来るだけ大勢の人が神の命に与かる事が出来るように努力しましょう。 アーメン。
復活節第6主日B年 2015年5月10日 グイノ・ジェラール神父
使徒10,25-26、34-35,44-48 1ヨハネ4,7-10 ヨハネ15,9-17
イエスは父なる神の所に戻ろうとしています。 イエスが弟子たちに語っている言葉は彼の遺言であり、彼の最期の意思の表現でもあります。 実に数日後には、イエスは私たちを愛しているので、ご自分の命を与えるつもりです。 神は愛によってすべてをお造りになりましたので、全ての命は神の愛に起源を持ちます。 神はご自分の愛を示すために、ご自分の愛する子イエスを私たちに遣わしました。 従って、イエスの言葉と行い、そしてまたイエスの生涯と死は、私たちに注がれている神の愛を証言します。
神は人間に愛する事の出来る心を与えたことを、イエスはこの世を去る前に弟子たちに思い起こさせます。 しかし愛するためには、先ず私たちが無償で何の条件も理由もなしに、神に愛されていることに気づくことが必要です。 愛はいつも神の愛の内に由来するからです。 「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13,35)とイエスは私たちに打ち明けました。 愛する人は神に似る者となり、そして永遠に残る実を結び始めるようになります(参照:ヨハネ15,16)。 確かに、互いに愛し合う事によって、私たちは神に栄光を与え、その独り子イエス・キリストを証しする、豊かな実を結ぶことが出来るのです。
聖霊は父なる神とその独り子イエスの愛に繋がっているからこそ、私たちは聖霊に「愛し方」を願わなければなりません。 私たちはどう愛するべきかを知りません。 しかし、願えば聖霊は弱い私たちを助けてくださいます(参照:ローマ8,26)。 多くの聖人たちは生涯に渡って充分に愛する事が出来なかった事について、嘆き悲しみました。 確かに愛は永遠の力を持っているので、燃え続ける為には絶えずより一層、燃え上がることを要求します。 そう言う訳で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とイエスは私たちに願います。 イエスは私たちの為にご自分の命を与え、そして私たちを選んだから、私たちにも他の人々の為に自分たちの命を捧げるように招きます。
私たちはイエスの友となりました。 と言うのは、イエスはご自分の心の秘密を私たちに打ち明けましたのです。 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」、「父から聞いたことを全てあなたがたに知らせました」とイエスは愛を持って言いました。 知識と愛は不可分で切り離すことが出来ません。 愛は神に対しての知識を与え、知識はより一層愛する力を与えます。 また愛は忠実さの確信です。 その理由でイエスは私たちに揺るぎない忠実さを要求します。 「あなたがたは、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 それはわたしが父の掟を守り、その愛にとどまっていると同じように」(参照:ヨハネ15,10)と。
そして「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とイエスは加えます。 私たちに対する神の愛も、隣人に示す私たちの愛も、絶え間ない喜びと平和の泉とならなければなりません。 神が私たちを愛していることを知ることは、恐れと困難から私たちを救います。 隣人を愛することは、利己主義や不信や閉じ籠りと言う態度から私たち自身を守ります。 愛することは与えられた赦し、また受けた赦しに心を大きく開くので、全てのキリスト者にとってイエスの愛の掟を実現する事はとても肝心なことです。
互いの為に祈りながら、聖霊が私たちの心を開くように、そして私たちを愛の完成にまで導くように願いましょう。 最後にイエス・キリストによって、今日も、いつも、また永遠に与えられた神の愛の為に、このミサ祭儀を通して感謝しましょう。 アーメン。
主の昇天(祭日)B年 2015年5月17日 グイノ・ジェラール神父
使徒1,1-11 エフェソ4,1-13 マルコ16,15-20
正直に言うならばイエスは、いつ、どこで、またどんな風に弟子たちから離れて天に昇られたのか、私たちには分りません。 福音書と使徒言行録の中で、主の昇天の出来事を述べている話を四つ見つけます。 二つの物語(マルコ、ルカ)は復活の日の夜に主の昇天を設定しています。 残りの二つの物語は、復活の数日後(マタイ)あるいは復活の40日後(ルカ)にこの出来事を設定しています。 マルコは昇天の場所を教えません。 一方、ルカはエルサレムのオリーブ山で昇天したとしています。 そしてマタイはガリラヤの名前のない山で、イエスは昇天したとしています。 ヨハネに関しては、昇天の出来事を全く知らないのか、これについて何も証ししません。
もう一つの問題があります。 この物語を書いた人たちは「天に昇られた」とか、「天に上げられた」と言うときに一体何を意味するのでしょうか。 青空と雲は神の国ではないことを私たちは知っています。 昔、預言者エリヤが火の車に乗って天に昇ったように、或いは宇宙飛行士のようには、イエスは天に昇りませんでした。 そうであれば、キリストの昇天の証し人は何を私たちに伝えたいのでしょうか。 先ず、彼らは言い表わせない不思議過ぎる唯一の出来事の証人であったことを言いたいのです。 当時の人々にとって、解り易いイメージを使って、福音史家たちは弟子たちの体験したことを説明し伝えようとしました。
事実、世界に関して古代の人々と私たちの概念は全く違います。 古代の人にとっては、地球は平たい形で水で囲まれていて、その下に死者の場所があります。 また、地球は下の水と上の水を隔てる「天の大空」と呼ばれているドームで覆われています。 そのドームには太陽、月、星が掛けられています。 またこのドームの上に特別な場所があって、そこでは「上の力」と呼ばれている良い天使と悪い天使が住み、彼らは被造物や人間の自由を自分たちの力で威圧し、神と造られた世界の間に壁のようなものを作っています。 そして、最後にもっと高いレベルに神の住む場所があります。 福音史家たちは、頭の中にこのような古代の人々の世界に関する概念を持って、昇天を語ります。
「イエスが天に上げられた」ということは、被造物と人間を支配し困らせていた「上の力」は、もう何もすることが出来なくなり、イエスが彼らを完全に服従させたことを意味します。 ご自分の昇天によって、イエスは私たちに反する全てのものの上に置かれているので、全ては完全に彼の足もとに置かれ従わされました(参照:エフェソ1,21-22)。 昇天の日からキリストは、造られた全てのものを最終的に支配します。 言い換えれば、受難の時にイエスは悪の力と死に打ち勝った事、そして愛の勝利を現わしたという事の神秘を主の昇天がはっきりと啓示します。
ご自分の死と復活と昇天によって、イエスは地上の生き方から天上の生き方に移されたことを福音史家たちが説明しようとします。 ナザレのイエスは、これからは神の子であり、私たちの神、そして私たちの救い主であり、贖い主です。 イエスは地上の人間の状態から完全に解放されましたが、しかし毎日私たちの直ぐ傍に留まりながら、神の栄光の内におられるお方です。 その為にキリストがいつ父のもとに行かれたのかという、日付や場所を特定するのは到底無理です。 世の終わりまでイエスは毎日私たちと共におられます(マタイ28,20)。 神の右に座しているイエスは、福音を宣べ伝えるために世界に遣わしたご自分の弟子たちを助け(マルコ16,20)そして聖霊の力で彼らを守ります(ルカ24,49、使徒1,8)。
私たちは信仰と希望の時を生きています。 目に見えているイエスの不在と目に見えていないイエスの現存は、希望する事と信じる事に私たちを招きます。 世の終わりまでイエスは、私たちと共におられますが、彼の現存は霊的な存在です。 「わたしたちは、肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」(2コリント5,16)と聖パウロは言います。 実に、私たちに与えられた聖霊によってイエスは私たちの内に留まります。 と言うのはイエスは、もはや「インマニヌエル」つまり「私たちと共におられる神」だけではなく、私たちの内におられる神です。 ですから「わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変りやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって高く昇っていきます」(参照:エフェソ4,14-15)。 アーメン。
聖霊降臨の主日(祭日)B年 2015年5月24日 グイノ・ジェラール神父
使徒2,1-11 ガラテ5,16-25 ヨハネ15,26-27、16,12-15
ご自分の死の直前にイエスは、私たちの為に聖霊の賜物を父なる神に願います。 その時、イエスは聖霊の役割を示す為にギリシャ語の「paraclet・パラクレト」という単語を使います。 その言葉は、まず助けをもたらす人を指します。 その言葉は次々と順番に、祈られた人、頼まれた人、何かに招かれた人、力づける人、そして善良へ駆りたてる人などを指しています。 言い換えれば、イエスが約束された聖霊の働きかけは、様々な形をとり効果的に働きます。
聖霊について話す時、イエスは二度繰り返して話します。 そして聖霊が「真理の霊として」人々を導いて、真理をことごとく悟らせると説明します。 この真理のお蔭で、弟子たちはキリストの証人となり、そして聖霊ご自身が明白なしるしによって、弟子たちの証しが真実であることを表します。
「あなたがたはエルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1,8)とイエスは言いました。 聖霊降臨の日に、弟子たちはどんな事があっても、あらゆる困難を退けて、キリストにおける真理に対する証しをする為に必要な力を受けました。 聖霊によって、キリストの教会として集められた弟子たちの証しは、効果的であり、大勢の人の回心を起こしました。 「その日に三千人ほどの人々が、弟子たちの話を受け入れて洗礼を受けました」(参照:使徒2,41)と聖ルカが書き記しています。
弟子たちの上に聖霊降臨があったのと同じように、聖霊は今日も私たちと共に働いています。 長い歴史を通して、あらゆる迫害や分裂にもかかわらず、聖霊がキリストの教会を支え続け、真理の証人を呼び起こしました。 聖霊の助けによって、私たちが属するこの世界の中心で、私たちはキリストの証人とならなければなりません。 この目的を目指して一番大切なことは、先ず、キリストと一致する事、そしてキリストの真理の言葉で自分を養う事です。 聖霊によって、キリストが私たちの内で共に生きておられる事を私たちはよく知っています。 また、信仰によって復活されたキリストが、絶えず私たちにご自分の神的な命に与からせる事をも知っています。
もし、度々聖霊に祈るならば、聖霊ははっきりとご自分の本質を私たちに知らせる事、そして私たちが真理のうちに働く事を教えるでしょう。 聖霊とは私の心の中に留まりたい、そして私の生き方を分かち合いたい、どうしても私たちと一致したい神ご自身です。 聖霊はご自分の神性、英知、喜びと愛を私たちと分かち合いたいのです。 聖サロフのセラフィム(Seraphim de Sarov)はこのように証ししました。 「キリスト教的な生き方の目的は、聖霊を取得する事です」と。 事実、私たちが父なる神の愛とキリストへの知識の内に成長する為に、また他の人に向かって開かれた心で生きる為に、聖霊と共に聖霊のすべての賜物が私たちに与えられています。
また、セザレの聖バジリオ(Basile de Cesaree)はこのように証しします。 「誰も聖霊を捕まえる事が出来ませんが、しかし、全ての人が聖霊の善良さを味わって悟る事が出来るのです」と。 人が聖霊の善良さを理解する理由は、聖霊が愛だからです。 そして他の人に向かって良い業を行うように、聖霊は私たちを励ましています。 もし、自分の生き方と自分の心に真の愛が足りないと感じるなら、それは聖霊が私たちの内に働くように私たちが充分に祈らなかったからです。
真理の霊は決して教皇様や司教団の所有物で、彼らだけが保有するものではありません。 洗礼を受けたべての人に、聖霊が豊かに与えられています。 主イエスがもたらす平和と一致をこの世界が味わうことが出来るように、キリストの弟子として私たちの証しは肝心です。 ご自分の死の直前にイエスは私たちの為に、父なる神に「一致の賜物」を願いました。 「父よ、すべての人を一つにしてください。 そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハネ17,21)と。 聖パウロも書き記した数々の手紙を通してこの本質的な面についてよく強調しました。 「平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を保つように努めなさい」(エフェソ4,3)と。 ですから、この祭日の日に当たって、聖霊の充満さが私たちに与えられるように切に祈り、そして神が望まれる一致と平和がこの世界を早めに変化させ、全ての人が愛の完成と完全な真理に導かれますように乞い求めましょう。 アーメン。
三位一体の主日(祭日)B年 2015年5月31日 グイノ・ジェラール神父
申命記4,32-34,39-40 ローマ8,14-17 マタイ28,16-20
私たちが祝っている三位一体の祭日は、十四世紀に設立されました。 三位一体の唯一の神を信じる事はとても肝心です。 何故かと言うと、この信仰が人間として、且つキリスト者としての私たちの生き方を照らし、導き、理解させるからです。 神の似姿に造られた私たちが、その神を良く知る事は最も大切な問題です。 何故なら、神を知る事によって私たちは自分自身を知る事になるからです。
イエスが言われた言葉に耳を傾けるなら、三位一体の神と一致する繋がりと絆を私たちは発見できます。 先ず、イエスは私たちに次のように打ち明けます。 「聖霊はわたしに栄光を与える。 わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。 だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである」(参照:ヨハネ16,14-15)と。 三位一体の神は、寛大さと謙遜の神秘であり、各ペルソナが他のペルソナをお互いに紹介し合い、お互いに遣わし合うからです。 三位一体の神とは「交わりと分かち合い」の模範であり、私たちがそれを真似るように召されています。
しかし、三位一体の神を詳しく理解することは大切ではありません、それはとても不可能です。 むしろ神の心から湧き出る愛のとりこになるように努力しましょう。 何故なら、実にこの愛こそが私たちを聖化させ、またこの世界を変化させますから。 自分たちの人生に三位一体の神の愛を受け留める事によって、私たちは既にゆっくり、しかし安全に愛の完成まで導かれています。 私たちは神のみ顔の反映であるように、神は愛の内に私たちを創造されました。 従って私たちの振る舞いも、神の憐れみ深い愛を例外なしに全ての人々に現さなければなりません。
私たちが祈る時には、その祈りはいつも三位一体の神に向かっています。 「イエスと御父は一つであること」(ヨハネ10,30)を私たちはよく知っています。 また、神に心を開いて語る時に、聖霊は私たちに「アッバ、父よ」と言わせながら、御子イエスについて正しく教え、そして私たちに神に対する子としての相応しい態度を取らせることも、私たちは良く知っています。 私たちは本当に神の似姿であり、私たちの使命とは愛に生き、憐れみを示し、聖なる者となることだと聖霊は絶えず証ししています。 「聖なる者となれ。 わたしが聖なる者だから」(レビ記11,44)と神は要求されます。 「互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように」(ヨハネ13,34)とイエスは勧めます。 また、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6,36)とも願っています。
神に模って、神の似姿に似せて生きる時にだけ、私たちは自分の真実の存在に辿り着く事が出来ます。 他の人々と愛と憐れみの絆を結ぶことによって、毎日、神の神性に与かるように、全てのキリスト者は召されています。 三位一体の神秘は神学的な教義であるよりも、自分たちの神秘に生きる為の大きな呼びかけです。 コロサイの信徒への手紙の中で聖パウロはこの神秘を説明します。 「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」(コロサイ3,3-4)と。
三位一体の祭日は、次のことを思い起こさせます。 まず、全ての人が神を信じるように招かれています。 次に、すべての人が父、子、聖霊である神の内に自分の居場所があることを知るように誘われています。 もし神が私たちの為に準備して、望まれる場所にいきたいなら、先ず神と、そして私たちの人生の道で出会う人々と、愛と分かち合いの絆を親しく結ぶように努力しなければなりません。 更に自分の心の内にある三位一体の神の現存について明白であるようにしましょう。 確かに「私たちは神の神殿である」ことをあまり考えていないのを正直に認めましょう。 私たちの内に留まる神に対して無関心な態度を示し続けない為に、度々神の言葉に耳を傾けながら、私たちに示されている無限な愛と永久の慈しみの為に神に感謝しましょう。 アーメン。
キリストの聖体 B年 2015年6月7日 グイノ・ジェラール神父
出エジプト24,3-8 ヘブライ9,11-15 マルコ14,12-16、22-26
弟子たちが出かけて都に行って見ると、イエスが言われた通りだったことを確認しました。 今度も弟子たちはイエスの言葉が信頼出来ることを体験しました。 ご存じのように、既に1週間前にエルサレムに入城した時に、イエスはロバを見つける場所と持ち主の反応を預言しました。
「わたしたちのために過越の食事の準備をしなさい」と遣わした二人の弟子にイエスは頼みました。 実は、弟子たちがイエスの言葉を盲目的に信じるように、イエスは彼らの心を準備しました。 あらかじめ起こることを説明することで、ご自分が言ったことが全て真理の言葉だということを信じるように、イエスは彼らを育てました。 この二人の弟子たちも、自分自身でイエスが本当のことを語っていることを確かめましたので、彼らはこれからは、どこでもイエスに従い、見なくても、理解出来なくてもイエスの言葉によって教え導かれるように準備の出来た人となりました。 実際にイエスは、この二人の弟子たちが過越の食事を祝うイエスが宣べる不思議な言葉を受け止めるように、覚悟をさせています。
「これを取って食べなさい。 これはわたしの体です。 これを飲みなさい。 これはわたしの血です」とイエスが言う時に、弟子たちは健康な体を持っているイエスを見ています」。 いったい一切れのパンとぶどう酒の杯を渡すイエスの不思議な言葉を弟子たちが果して理解出来るでしょうか。 しかし、弟子たちは誰一人として、イエスの言葉を疑いませんでした。 なぜなら彼らは皆、イエスの言われた事が必ず実現する事を良く知っていましたから。 三年間の間、様々の奇跡を通してイエスは、行われた奇跡の結果を見なくても、イエスの言葉を理解できなくても、言われた言葉により頼む様に、弟子たちを育てました。 イエスは自分の弟子たちが、神の目で、また信仰の目で、全てを見るように教えました。 なぜなら人間のレベルでは、イエスの言葉を受け入れにくいですから。
「わたしの言葉は真理です。 人間の経験に基づく明白さが人を惑わせ、決して神まであなたを導くことが出来ません。 ですから、私の言葉だけをあなたの人生の支えとしなさい」と、イエスは私たち一人ひとりに願っています。 宣教活動が始まった時に、「人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4,4)とイエスは言いました。 今日キリストの言葉が私たちの糧と飲み物となります。 「私の体となるために、私の言葉のパンを食べなさい。 あなたの静脈に私の血が流れるように、私の教えの言葉を飲みなさい」と、イエスは招きます。
パンとぶどう酒を取ってイエスは「これはわたしの体。 これはわたしの血です」と言います。 イエスは私たちの為に、ご自分の言葉を真の糧とします。 その糧は神ご自身の命を私たちに与えます。 この神秘的なキリストの言葉なしには、パンとぶどう酒は秘跡とはなりません。 ただ普通の食べ物と飲み物のままです。 しかし、イエスが言われた言葉によって、パンとぶどう酒、または水と油は秘跡的なしるしとなります。 イエスの言葉はいつも秘跡的で神の効果的な業です。 従って、パンを食べることによって、ぶどう酒を飲むことによって私たちは神のみ言葉であるキリストを頂き、キリストの体と血となります。 洗礼の水によって私たちは神の子となり、さらに洗礼と病者の油によって聖霊がご自分の賜物で私たちを満たします。
ミサに与ることによって、全てを理解しなくても、信仰の内に私たちは神に向かって、手と口を開くように学んでいます。 確かにミサ祭儀は、神の全ての言葉を受け入れるように私たちを招いていますが、それは頭の教えとしてではなくて、むしろ体内の食べ物として受けるように招いています。 神の言葉が私たちをイエスの神秘に入らせます。 それは、私たちが神の神聖に与る為です。
ミサ祭儀からミサ祭儀へ私たちは神の命に与ります。 そして、み言葉であるイエスは私たちの体にご自分の栄光と永遠の命を与えます。 いくらそれを見なくても、感じなくても、私たちはそれを心を尽くして信じるのです。 いつか必ずイエスの弟子たちが体験したように、イエスが言われ、約束されたことが完全に実現するのを私たちも見るでしょう。 ですから、ご聖体の秘跡の為に神に感謝しながら、出来るだけミサに度々与るように努力しましょう。 アーメン。
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